建築設計×環境シミュレーション -新しい職能への挑戦- 谷口 景一朗
(本文は建築学会会誌の建築雑誌に投稿したものです)
Architectural Design×Environmental Simulation-Challenge to new professional abilities-
環境シミュレーションツールの急速な発展・普及により、設計段階で環境シミュレーションを活用した事例は珍しいものではなくなってきており、専門家による精緻なシミュレーションのみではなく、特に設計初期段階のスタディの一環として設計者自身が簡易な環境シミュレーションを試みている事例も増えてきている。メディアでも環境シミュレーションによる検討の詳細が紹介されることも増えており、それに伴って設計教育の中で環境シミュレーションを学びたいという学生の要望も多く聞かれるようになってきた。そのような状況を受けて東京大学工学部建築学科では、毎年夏学期に学部4年生および修士1年生を対象とした、意匠系研究室に限らず様々な研究室がそれぞれにテーマを掲げて設計スタジオを主催する通称スタジオ課題と呼ばれる設計課題の中で、2008年度に前真之准教授を中心とした環境系スタジオをスタートさせた。ここでは、環境系スタジオが始まってから10年余りでの取組みの変遷を紹介するとともに、設計教育が拡げる建築家の新たな職能の可能性について論じてみたい。
スタジオの変遷は大きく3つのフェーズに分けられる。
2008年度からの第1フェーズでは、現在と比べるとまだまだシミュレーションツールを容易に活用することができる状況ではなく、数多くの環境シミュレーションを行ってスタディに活かすというよりは、環境的なコンセプトからいかに建築を組み立てるか、その思考実験に重きを置いていた。その取組みの中で、例えば土木×環境や超高層×環境といった、従来は環境(ここでは主にパッシブな環境技術の意)的な視点からのアプローチが欠けていたスケールでの興味深い設計案が提案されたのがこの時期である。
スタジオ第1フェーズの設計案(2012年度、「Maximum Mountain of Minimum Lives」西倉美祝)
2013年度からの第2フェーズでは、設計教育に使用できるシミュレーションツールの選択肢が徐々に増えてきたため、環境シミュレーションを用いたパラメトリックスタディによる建築形態の決定など、より環境シミュレーション自体に注力した設計案が提案された時期である。特に2014年度からは「Design With Climate」という名の課題のもと、対象の敷地を学生にとって馴染みの薄い遠隔地や海外の敷地に設定することで、環境シミュレーションツールを用いた気象分析に力を入れ、より客観的に気象の特徴を捉えたうえで設計案を考えることに取り組んできた。敷地の気象分析から始まり、設計初期のラフなシミュレーションを用いた比較検討、そして案がまとまってきた設計後期でのより多くのパラメータを加味した精緻なシミュレーションへと続く、環境シミュレーションを設計に活用する基本的なプロセスはこの時期に確立されていった。一方で、シミュレーションツールの充実に伴い、環境シミュレーションを行うことに注力しすぎて、建築本来の在り方やコンセプトに対する検討が十分でない設計案も散見されるという課題が見られるようになったのもこの時期である。
スタジオ第2フェーズの設計案(2016年度、「風を運ぶ家 –境界を越えて風を共有するためのシェアハウス-」熊谷雄)
そこで、2018年度からは第3フェーズと位置づけ、改めて建築本来の在り方と向き合うとともに、それに適したシミュレーションツールを適切に取捨選択することで環境シミュレーションによる設計案の適切なディベロップに挑むという、建築設計×環境シミュレーションが本来持つポテンシャルに改めてチャレンジすることを試みた。その中で、2019年度は既存建築を設計対象(学部課題は「時の流れる家(設計:SUGAWARADAISUKE)」「ミナガワビレッジ(設計:再生建築研究所)」「CASACO(設計:tomito architecture)」の3建築、修士課題は「大宮前体育館(設計:青木淳建築計画事務所)」を対象とした)とし、課題の冒頭に各設計対象の見学および設計者による設計主旨のレクチャーを受けたうえで、それぞれの敷地で同規模・同プログラムの設計案を、環境シミュレーションを活用しながら提案する課題に取り組んでもらった。レクチャーの中で建築のコンセプトやそれに取り巻く様々な制約、あるいは敷地の周辺環境の条件などを設計者からの生の声として聴いたことで、例えばCASACOを対象とした設計案では、既存建築と同じ改修の制約(ルール)の中での従来の環境的最適解とは異なる、段階的な環境改善の手法が環境シミュレーションによる効果検証とともに提案されたり、あるいは大宮前体育館を対象とした設計案では敷地内に留まらず敷地境界の外へ与える影響を、環境シミュレーションを用いて検証した利他的な建築が提案されたり、とより適材適所に環境シミュレーションを活用した設計案が数多く提案された。最終的には、設計対象とした建築の設計者を招いた最終講評の場で自らの設計案をプレゼンテーションすることで、1人の環境シミュレーションのプロフェッショナルとして建築家と対峙する場を疑似体験してもらえたのではないかと思っている。
スタジオ第3フェーズの設計案(2019年度、「大宮前体育館新案 –人の振る舞いと風の道-」服部充紘)
建築設計の分業化の流れは環境設計についても例外ではなく、海外ではSustainable EngineerもしくはEnergy Consultantと呼ばれる環境シミュレーションを活用したコンサルティングを主とする独立した職能が意匠設計や設備設計とは別に確立されている。今後、この流れはそう遠くないうちに日本にも訪れると予想され、そのような人材の育成が大学をはじめとする教育機関にはこれから益々求められていくだろう。このスタジオでも来年度以降、意匠設計者枠と環境エンジニア枠に分けたグループワークで課題に取り組むなど、社会的な職能の変化を捉えた課題設定を心掛けていく予定である。スタジオを受講した学生が新しい職能をリードする存在となってくれる日が来ることを願っている。
最後に、本スタジオの受講生が履修している多くの環境シミュレーションツールについては、筆者らが運営するウェブサイト「Building Environment Design.com(http://building-env.com/)」にてチュートリアルや参考プログラムを一般公開している。興味のある方はぜひウェブサイトにアクセスしてみていただきたい。環境シミュレーションに興味を持った学生(もちろん社会人も)が自ら学習する機会を提供することは教育者として重要であると考えているし、その機会を活用して多くの学生が新しい職能に挑戦していってくれることを願っている。
設計対象とした建築の設計者を招いて行われた2019年度のスタジオ最終講評会(ミナガワビレッジにて)